GG通信 5

 テレビ塔の下で

             ホテルは駅前にしてよと恵子が言うには訳があります。美術館巡りに

                            明け暮れたミュンヘンでの4日間。歩くのがよほど堪えたらしく、夕方

              やっと駅に帰り着いてから、またホテルまで歩くのはうんざりだ。せめて

              駅前にしろと。したがってベルリンではあのアレキサンダープラッツ駅前

              ホテルを予約しました。旧東ベルリン地区。悪名高きテレビ塔のある広場、

              そのすぐそばにアメリカ資本が建てた巨大ホテルです。

              予約を頼んだフランクフルトの日系旅行社の話ではガラス張りの風呂とかで、

              期待?して入ったのがガラス張りでもシャワーブースだけ。オイオイ話が

              ちがうじゃないのと例の旅行社に電話を入れました。結果アイムソーリーと

              フロント女性。新しく受け取ったカードキーで入った所がもっと小さな

              部屋でしかもシャワーブースだけ。怒り心頭に発してフロントへ突進。

              フロント女性の上司と旅行社の女性と私の三者電話の結果、相手は非を認め、

              最良の部屋を提供するということとなりました。

              (この間、最初のフロント女性は素知らぬ顔)

              入ったのは14階のカド部屋。正面・側面に大きな窓。市街は一望に。バス

              タブ3面はガラス張り。ベッドから裸の恵子が見える

             (だからどうってこともないのですが)。

            窓際ソファにデンとすわると巨大タワーが目前にある。京都駅から京都

              タワーを見上げるような位置関係(2倍以上高い)。これがホーネッカーと

              取り巻き連中が社会主義体制を西側にアッピールするため鳴り物入りで

              建てたヤツか。京都タワーは見慣れたから気にしなくなっただけで、元来

              くだらんデザインだ。これもどっこいどっこいだな。団子3兄弟から次男と

              三男が抜け落ちて、長男だけ串に残ったよう形だ。見上げると“長男”展望台

              に明かりが見える。こっちを見下している人がいるのだろう。壁崩壊以前、

              東の人はここに登って繁栄する西側をうらやましく見ていたと聞いたこと

              がある。

 人々が雪崩を打って西に向かい、89年に壁が崩壊するまで、国民がどっちを

 向いているのか指導層にわからなかったのか。わかっていても打つ手がなかっ

 たのか(多分そうなのだろう)。

 たまたま時流に乗って大きくなってしまった東大阪の中小企業のオヤジのケー

 スに似ている。 銀行も取り巻きもべんちゃらを言うだけ。耳に痛いことは

 誰も言わない。たまに言うヤツがいると小賢しィ〜と遠ざけてしまい、オッと

 気がついたときには打つ手が無いか、詐欺師に骨までしゃぶられる。

 ホーネッカーはガンになって訴追を免れ、南米かどこかでヒッソリと死んだ。

  どんな抗弁をしたか伝わっていない。もし傾聴に値するものがあるなら、オレ

 にも知るチャンスがあり得たかも。(黙って死んだのだろう)社会主義の優等生
 と言われたDDR(東ドイツ)。西(資本主義)の金に糸目をつけない悪宣伝の

 ために滅んだと言うなら、あの社会主義はそれだけの値打ちだったからか。

 

                               社会主義国東ドイツの弔いをする気になりました。駅前のこれまた西側資本のデパ

                               地下から 仕入れたビールとワイン。ホテルミニバーよりウンと安い。資本主義の

                               論理だ。同質なら消費者は安い方を買う。テレビ塔見上げてひとり飲みました。

                              昔、惚れた女が死んだような。 こうとわかっていたら惚れなかったような。苦い

                              想いを ビールで流し込みます。

                            窓の下ではクリスマスマーケット。心無しか西側のものより淋しそう。西へ逃げたく

                             ても 逃げる先が無かった人も通っているのでしょう。

 

 ベルリーナーアンサンブルとブレヒト像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベルリン滞在5日間、今日はフランクフルトへ戻る日。その前に昨年見たベルリンの壁がもう一度見

 たいと恵子は言う。(前年はツアーでベルリンからウイーンまでウロウロした)

 あぁあそこだなと思い込んだのが間違いだった。直感を優先してしまい、検証しないオレの性格が出て

 しまった。目的地は地図上でよく似ていても、行き先は逆方向。気がついて引返そうにも列車に遅れる。


 あなたはどこかで180°まちがう人なのよ。と恵子が口を尖らせる。減点法で人を見るな。

 ここはフリードリッヒシュトラーセ駅。このあたりのシュプレー川は狭くかつ汚い。まるで尼崎

 の神崎川だ。両岸は鋼矢板でまるで風情がない。褐色の水を分けて荷船がのろのろ動いて行く。

 曇り空で川風は冷たく、土曜日なのか通りはガランとして人のぬくもり感がない。例のテレビ塔

 だけが通りの向こうにニョキッとある。

(ベルリンのたいていの所からこいつが見える。京都タワーと同じだ。気にし始めたらいつまでも気になる存在)

 こんな所にいても仕方ないとガイドブックを出して眺めると、つい先にベルリーナアンサンブルが載って

 いるではないか。ブレヒト率いた劇団の本拠地だ。オー懐かしい。

 朝から酒ビンを握ってウロウロしているオッサンを避け、ふた昔前の京橋ガード下を思わせる鉄道橋を

 渡る。あのあたりかなと思いつつヒョイと横を見ると小公園の奥に見覚えの像。近づけばまさにブレ

 ヒトだ。写真でよく見た渋面だ。眉根を寄せて今しがたゴキブリを五つほどつぶして来ましたよと言う

 ようなうっとうしい顔をしている。

 しばし像と向き合う。この人に惚れたんだよなぁ。オレは。あれは「マリーAの想い出」という詩に心を

 奪われた時からだ。その新鮮な叙情性。今でも一字一句覚えている。口ずさんでうっとりした。それで

 ドイツ語を始めた。20歳の頃だ。それから彼の著作は片っ端から読んだ。戯曲。詩。評論。いまでも

 我家の書棚に残っている。

 

 その頃、進歩的知識人とよばれる人たちは大抵、社会主義者・マルキストだったから彼を持ち上げた。

 文学座、民芸、俳優座など、盛んにブレヒト劇をやった。小気味のいい舞台廻しが観客をうならせた。

 主題はわかりやすい上、クルトヴァイルやパウル・デッソウのメロディとソングが当時の若者を魅了した。

 そんなこともあって、資本主義から社会主義への移行は、歴史的法則だ。必然だと信じたものだ。

(そうなりそうもなかった。呆然・深い失望。やむなくオレは黙って会社勤めをした)

 

          像の左側にベルリーナーアンサンブルの建物が立っている。ブレヒト専門劇場だ。

           休日なのか人はいない。窓を順に覗いてみる。当世風にパソコンが並んでいる。

           立看板はクルトヴァイルと歌手ギゼラ・マイの記念祭の広告。像の周囲は手入れ

           の行き届かない児童公園みたい。曇った冬空の下、ただ単にあり続けている。

           もう日本ではブレヒト劇はしない。するとすれば三文オペラまでか。彼の理念は

           滅んだのか。どこか深いところで埋火で残っているのか。彼はナチの迫害を

           逃れて北欧からアメリカに逃げ、最後は自分の意志で東ドイツに入り、若くして

           死んだ。たしか心臓発作だった。生きていたら社会主義国家DDR崩壊。すぐ後の

           ソ連の消滅をどういうだろう。帰りに橋の上から振り返るとブレヒト像がこっちを

           見ている。不意に熱いものがこみ上げる。

 

 若い頃、強い影響を受けた思想は、言わば心に彫り込んだ入墨だ。容易なことで薄れない。しかしこの

 旅は残る人生は前だけを見ようと、残滓を切り捨てるために来たのだ。

 オレが地上にいる時はそう長くない。線を引こう。犬も水から上がったら全力で体を揺すっ て水滴を

 はじき飛ばす。

 ICE(特急)でベルリンを後にする。今度いつ来るだろう。列車は旧東ドイツ領内を200kmですっ飛ばす。

 森も牧草地も町も湖も後にする。

 

 

 

ベルトルト・ブレヒト像

ブレヒト広場とベルリーナ・アンサンブル劇場

DDRドイツ民主共和国建国

40周年記念たしか壁が壊れる

直前?!